冤罪は社会秩序を守るための必要経費なのか? 冤罪は社会秩序を守るための必要経費なのか? – みなためラボ

冤罪は社会秩序を守るための必要経費なのか?


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はじめに

みなため

どうも! みなため(@MinatameT)です。

あるイラストレーターが「子供を児童ポルノの被害から守るためであれば、冤罪を生んでも構いません。冤罪は社会秩序のための必要経費です。」といった主張をし、少し炎上しました。

この記事では、冤罪が社会秩序を守るために本当に必要なのかを説明していきます。

刑事事件の大原則

大原則を教える、ベルト上げすぎ警察官

まず、刑事事件の大原則として「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰するなかれ」という格言があります。

この意味は「犯罪行為をしていない人を絶対に罰するな」と、冤罪を禁止するものです。

これは18世紀のイギリスの法学者であるウィリアム・ブラックストンが提唱したもので、多くの法治国家で採用されてきました。

現在でもアメリカやドイツなどの多くの国の司法制度の大原則となっており、冤罪を防ぐための基本理念として広く認められています。

ただ、この大原則が日本の歴史でちゃんと守られてきたかというと……残念ながらそうではありません。

冤罪の実例

冤罪の確定

例えば、次のような冤罪事件がありました。

  • 袴田事件:1966年の静岡県での強盗殺人・放火事件についての冤罪事件。
  • 足利事件:1990年の栃木県での殺人・死体遺棄事件についての冤罪事件。
  • 志布志事件:2003年の鹿児島県での選挙についての冤罪事件。

冤罪を防ぐためには「疑わしきは罰せず」……つまり、やったという証拠がなければ罰してはならない原則があります。

しかし、このような冤罪事件が起こったのは、証拠がないのに拷問のような取り調べで嘘の自白をさせたり、証拠とされるものに間違いがあったりしたからですね。

冤罪は被害者やその家族の人生をめちゃくちゃにするものですが、その恐ろしさを想像できますか?

※たまに「(無罪だと信じてほしければ)やっていない証拠を出せ」という人がいますが、論外であることがわかりますよね。

冤罪が許容される社会になると

ディストピア

もし、炎上したイラストレーターの主張のように、子供たちを守るために冤罪を許容する社会に変化させたとします。

すると、次のような問題点が浮き彫りになってきます。

  • 警察や司法への信頼の失墜
  • 予測逮捕による人権侵害とそれによる人々の萎縮
  • 犯罪者に仕立て上げられるリスク

これらを順番に説明していきます。

まず、冤罪を許してしまうと、証拠が不十分でも「怪しければとにかく捕まえろ! 疑わしきは罰せよ!」という方針になりますから、法令をちゃんと守るはずの警察や司法に対する信頼がなくなります。

それだけでなく、警察が証拠集めをサボると真犯人を逃しやすくなりますよね。

真犯人が逃げるだけならまだマシですが、逃げている真犯人が新たな犯罪をするリスクもあります。

警察や司法がしっかりしていないと、犯罪率がアップすると考えられるわけです。

次に、予測逮捕とは「これから犯罪行為をしそうな人をあらかじめ逮捕しておく」というもので、冤罪の一種です。

これが許容されると、「あなたは貧乏人ですが職を失いましたよね? 経済的な困窮が理由で犯罪に手を染めるリスクが高いので逮捕しておきます。」とか「あなたはSNSの投稿から、暴力的な性格であると判断されました。事件を起こすリスクが高いので逮捕しておきます。」といったことが現実になる可能性があります。

不登校の子供やニートの人も、家庭環境が良好でないと判断されたら予測逮捕されるかもしれません。

冗談のように見えるかもしれませんが、社会秩序(おきれいな世界)のために冤罪を許容したらこうなってもおかしくはありません。

こうした理不尽な予測逮捕を回避するために、人々は萎縮します。

例えば、SNSで自由な投稿ができなくなったり、暴力的な内容のゲームを購入できなくなるかもしれません。

最後に、冤罪を許容すると、証拠がなくても恣意的に捕まえて罰することができるようになります。

特に、権力者が自分にとって都合の悪い人物を捕まえて、自分の利益や支配構造を守ることが考えられます。

人を蹴落としてまで自分の利益を守りたいと考えているような人は珍しくありませんから……。

これらのように、法を軽視して冤罪を許容することは、社会秩序を崩壊することにつながるわけです。

※どうやら、炎上したイラストレーターは「日本の民主主義を信じているので、権力者が独裁的に過度な表現規制をすることはないと信じています。」と考えているようなのですが、それは現実が見えておらずあまりにもお花畑というものです。奴らは白を黒にしますし、その逆もやりますから……。

危険思想と言論の自由

危険思想 in 暗い部屋

ここまでの説明で、冤罪が許容されることのデメリットは理解していただけたと思います。

また、炎上したイラストレーターの「子供を児童ポルノの被害から守るためであれば、冤罪を生んでも構いません。冤罪は社会秩序のための必要経費です。」という主張が危険思想であることもおわかりいただけたでしょう。

ただ、ここで注意していただきたいのは、危険思想を公表するのは「言論の自由」で保障されているという点です。

危険思想を含む投稿だからといって、不快な投稿だからといって、あまりもアンポンタンで世間知らずな投稿だからといって、その投稿を削除するように強要するのは人権侵害になります。

違法な投稿なら話は別ですよ!

もちろん、言論の自由は批判を受けない自由ではありませんので、批判が殺到して炎上したのも健全な状態だといえます(笑)。

SNSなどで意見を自由に交わせる状態を保つためにも、冤罪を許してはならないのです。

おわりに

子供を守りたい気持ちはわかりますが、冤罪を許容してしまうと法秩序が崩壊します。

警察や司法はゴミに成り下がり、法は予測不可能になり、理不尽に逮捕されるような社会になるからです。

人々は逮捕を恐れて自由な発言や創作活動ができなくなり、抑圧された息苦しい社会になるでしょう。

そんな不健全な社会で子供が健全に育つとは思えないのですが、本当にそれで良いのでしょうか?

おまけ:児童ポルノ問題

今回の記事の核ではなかったので(記事の流れをぶった切るので)わざと説明してきませんでしたが、ここで児童ポルノ問題についても軽く触れておきます。

まず、児童ポルノは「実在する」児童のポルノを指す言葉なので、イラスト(非実在のキャラクター)のポルノはこれに該当しません。

炎上したイラストレーターは「フィクションのポルノがリアルな児童ポルノを増やす要因になっている! 子供を性犯罪から守るためなら、表現の自由を失っても構わない!」と考えていると思われますが、正直なところ私は彼の思考回路がうまく理解できなかったので自信はありません。

実際のところはポルノの普及と性犯罪の発生の因果関係は認められていないので、それならポルノを規制する必要はなく、表現の自由を守るべきだといえます。

まあ、日本にもバカバカしい表現規制の法律はあるのですが、それがマシに思えるほど海外ではロリ系 & ショタ系の表現規制がエグいので、世界的に表現の自由が軽視されているのが現状です。

あっ、ここで誤解されないように明言しておきますが、私は「被害者の存在する児童ポルノ」の製造には断固反対しています。

これは解禁せず、法規制されたままにしておくべきです。

逆に被害者がいないのであれば、自由な創作活動や表現を認めるのが妥当だと考えていますが、そのためには表現規制に関する法律を改正しないといけませんね……(汗)。

おまけ:表現の自由の制限

冤罪とはまったく関係のない話ですが、おまけの項目なので好き勝手に説明します(笑)。

炎上したイラストレーターは、次のような主張もしていました。

  • 表現の自由も大切だが、人々の安全のためなら制限されても仕方がない。
  • 人々の価値観は少しずつ変わってきており、規制はこれから厳しくなっていくだろう。
  • 私は規制のギリギリのラインを攻める方針なので、規制が厳しくなっても支障はない。

まず、人々の安全のために表現の自由(創作の自由や言論の自由など)を法規制するとき、塩梅(程度)というものがあります。

どこに規制ラインを引くのかということです。

ただ、人によって納得のできるラインは異なりますし、「安全のため」という表現は曖昧で定義を恣意的に変えることができます。

例えば、リアルで具体的なテロの扇動は人々の安全を脅かす可能性の高い表現ですが、フィクションのポルノはどうでしょうか?

前の項目で説明したとおり、ポルノの普及と性犯罪の発生には因果関係が認められていませんし、多くの人は「ポルノで国民の安全が脅かされるわけないでしょ」と思うはずです。

でも、人によっては「ポルノの表現に影響を受けて、性犯罪をしてしまう人が出てくるかもしれない! だから、ポルノは人々の安全を脅かすものだ!」と結論づけるでしょう。

これが曖昧な言葉の危険性です。

「人々の安全のためなら規制されても仕方がない」という曖昧な主張は、規制派にとって都合が良いのです。

まあ、表現の自由を軽視する人にとってはどうでも良い話なのかもしれませんが、人権意識があって自由を尊ぶ人であれば規制の強化は絶対に避けたいところですよね。

……というか、ツッコミが遅れましたが、絵、音楽、映像、小説、ゲームなどの「あらゆる芸術作品の存在」と「人々の安全」は両立できるものですから、そもそも二者択一で考えるものではありません。

炎上したイラストレーターのように創作の自由と人々の安全を対立させて考えてしまうと、規制派にエサを与えることになりかねません(汗)。

それでは、最後に私の主張の要点をまとめます。

  • 「人々の安全」という言葉は曖昧であり、規制派がその曖昧さを利用して際限なく規制しようとする。
  • 「芸術作品(創作の自由)」と「人々の安全」は共存できる。二者択一は規制派の考え方。

私のこの価値観は、冤罪を防ぐ考え方と深く通ずるものです(無理やりEND)。

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