もくじ
はじめに
どうも! みなため(@MinatameT)です。
ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス、政治的正当性)とは、特定の属性(人種、性別、障害者など)の人たちに対して不快感を与えないように、人権侵害にならないように配慮しようとする活動や政策のことです。
ポリコレの理念は「不当な差別のない平等な社会の実現」です。
人権派の私としても、この理念はすべての人々が「人として」尊重される社会の実現のために大切なものだと考えています。
しかし、近年はこのポリコレの意識が過剰かつ強要される社会になってきていることが問題視されています。
この記事では「コロンブス騒動」から、ポリコレが創作文化にもたらす悪影響について考えていきます。
コロンブス騒動とは
Mrs. GREEN APPLE(以下「ミセス」)とは、日本の大人気ロックバンドです。
そのミセスが2024年6月に公開した『コロンブス』という楽曲のMV(ミュージックビデオ)に対して「人種差別的である」という批判が殺到し、そのMVは非公開の対応となりました。
また、ミセス側は「悲惨な歴史を肯定する意図はなかったが、我々の配慮不足だった」などと謝罪し、一部のテレビ番組への出演を見合わせることになりました。
この騒動について、私は「ミセスはほぼ悪くない」という意見です。
私はミセスのコアなファンというわけではありませんが、創作文化を守っていきたい立場の人間として純粋にそう思います。
その理由を次の項目から説明していきます。
芸術作品への解釈の多様性
小説、絵画、アニメ、漫画、音楽、映画など、あらゆる創作物は「芸術作品」と呼ばれます。
こうした芸術作品への解釈には多様性があります。
次のイラストをご覧ください。
これはなんのシーンなのかわかりますか?
答えは「ハロウィンの夜に羽目を外して騒ぎすぎて、近くにいた大人に怒られている少女のシーン」です。
でも、殺人現場のシーンに見えた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
続いて、次のイラストをご覧ください。
これはなんのシーンでしょうか?
答えは「テレビ番組の生放送中に『ナチス式敬礼で挨拶』というカンペで指示されたことに困惑してしまい、中途半端な敬礼になった女芸人のシーン」です。
でも、ダンスの練習シーンや先輩に犯人探しをされて自白するシーンに見えた方もいらっしゃると思います。
このように、芸術作品に対してはさまざまな解釈ができるわけです。
それなのに、たった1つの解釈を「絶対的な正解」であると決めつけるのは、芸術を軽んずる(冒涜している)ことになると思いませんか?
作者が答えを発表している場合は別ですが、イラストだけでなく小説や歌詞もあらゆる解釈ができますよね。
ですので、たとえ人種差別的な解釈ができたとしても、それは「1つの解釈に過ぎない」と意識すべきです。
客観的に白黒をつけようとしないことが、芸術作品に対する健全な姿勢ではないでしょうか?
キャンセルカルチャーが創作文化に与える影響
キャンセルカルチャーとは、社会的や道徳的に不適切とされる表現や行動を含む作品や人物に対し、その公開停止を求めたり、社会的に排除しようとする活動とその文化を指します。
法的に問題がないのにもかかわらず、特定の表現や行動がアウトだと判断された場合におこなわれる集団的私刑、社会的制裁の一種ですね。
社会正義の暴走ともいえるでしょう。
今回のコロンブス騒動であれば、『コロンブス』のMVに対して「公開停止すべき」という一部の人たちの圧力がキャンセルカルチャーに該当します。
このキャンセルカルチャーやバッシングによって、ミセスは『コロンブス』のMVを公開停止にするまで追い込まれてしまいました。
創作文化とは、アーティストやクリエイターが芸術作品を自由に創作するだけでなく、その作品をファンが楽しむ文化を指します。
キャンセルカルチャーが創作文化に対して次のような悪影響を与えることは、おわかりいただけると思います。
- アーティストやクリエイター:キャンセルカルチャーを恐れて自己検閲することで、自由なありのままの表現ができなくなる。
- ファン:お気に入りの作品がキャンセルカルチャーによって公開停止になってしまい、作品を楽しめなくなる。
日本は法治国家ですから(厳密には違いますがここでは説明しません。)、法的に問題のない表現については許容されるべきなのです。
つまり、アウトかどうかを決めるのは「法」です。
それなのに、独自または世論に流された正義基準で判断して、キャンセルカルチャーによって創作文化を破壊しようとするのは野蛮な行為だといえるのではないでしょうか?
もちろん、すべての人には「言論の自由」がありますので、健全な批判や解釈の発信は認められるべきです。
しかし、今回の騒動の一部にあったようなキャンセルカルチャー(作品の公開停止を求めること)は非建設的ですし、自己検閲を促して創作界隈を萎縮させるような行為だといえます。
ポリコレは創作文化を衰退させる
ポリコレの本来の理念は「不当な差別のない平等な社会の実現」という人道的で素晴らしいものです。
しかし、昨今の社会ではこのポリコレが過剰かつ強要されるようになってきています。
例えば、白人主人公の映画を無理やり黒人主人公の映画にしたり、ゲームの登場人物を無理やりブサイクにしたり……です。
さらに、ゲームやアニメなどのフィクション作品における特定の表現(言葉、衣装など)を規制した実例もあります。
ポリコレ対策として、今まで存在していた本来の表現をなかったことに改変するのは、芸術作品に対する冒涜です。
作品のファンを裏切って落胆させることにもなります。
こうした過剰なポリコレによって、創作文化は確実に衰退していきます。
それを防ぎ、自由な創作文化が尊重される社会を目指すためには、芸術作品に対するポリコレを受け入れない姿勢が必要不可欠です。
コロンブス騒動が不当な炎上である理由
これまでの説明内容を踏まえて、今回のコロンブス騒動について考えていきます。
『コロンブス』のMVに対して、次のような意見がとても多かったです。
- 自分はポリコレ反対派だけど、あのMVはさすがにアウトだと思った。
- MVのこの部分が人種差別的なので、ミセスはMVを非公開にして正解だった。
- ミセスが歴史を学ばないから、あのような配慮に欠けたMVができた。
はい、これこそが「ポリコレ」なんですよ!
「ポリコレに反対」と言っておきながら、芸術作品に対して「これはアウト」とポリコレに加担しているじゃないですか。
「公開停止すべき」と、キャンセルカルチャーをおこなっている人もいましたね。
『コロンブス』は法的に問題がない作品なのに、1つの解釈を絶対的なものであると決めつけ、独自または周りの正義基準で社会的にアウトだと裁く……これのどこがポリコレ反対派なのですか?
ミイラ取りがミイラになったのではなく、ミイラ取りの正体はすでにミイラだったという笑えない現実が浮き彫りになったわけですよ。
※しかも、私の同志だと思っていた表現の自由戦士の多くもミイラだったので、正直がっかりしました。
今回のコロンブス騒動は芸術に対する冒涜ですし、ミセスのイメージダウンにつながった悪質な正義ごっこだったといえます。
このような炎上が今後も続くようであれば、創作文化は徐々に死んでいきますよ。
そんな未来を回避するためにも、すべての人に「創作は自由である」ということを意識していただきたいです。
例えば、第二次世界大戦で広島県と長崎県以外にも原爆が落とされるif世界を描いた映画も、ホロコーストから着想を得たような表現のある小説も、自殺が推進される恐ろしい世界を描く漫画も、創作物なのですべて認められるべきです。
こうした過激な作品が不快であれば見なければ良いだけ、「私は嫌いだ」と言えば良いだけです。
圧力をかけて、作品を非公開にせざるを得ない流れにしないでください。
ミセスの本当の反省点
さて、コロンブス騒動を説明した部分で私は「ミセスはほぼ悪くない」と述べました。
「ほぼ」なので、私はミセスにも非(反省点)があると考えています。
それは次の2点です。
- MVに差別的表現があるとする論調を認めて謝罪したこと
- MVを公開停止したこと
まず、世界史に詳しい人が「このMVのこういった点が実際にあった差別問題を想起させて……」と無駄に長々と説明していますが、そんなことはどうでもいいんですよ。
前述のとおり、創作物の内容はアーティストやクリエイターの自由ですし、MVと現実の差別問題をリンクするのは1つの解釈に過ぎないからです。
社会正義とされるポリコレ棒(武器)を振りかざした集団的私刑によって、イメージダウンとキャンセルカルチャーの被害を受けたミセスですが、「配慮に欠けていた」という謝罪はよろしくないと思いました。
なぜなら、芸術作品にポリコレ的な配慮はそもそも必要ないからです。
「いや、でも作品を見て傷つく人もいるかもしれないし……」と言いたい方もいらっしゃるでしょうが、配慮をしていたら本当にきりがないんですよ。
『進撃の巨人』に登場する奇行種は障害者差別を助長しているという解釈もできますし、『アンパンマン』は幼い子供に暴力を推進しているという解釈もできますし、『ポケモン』は動物虐待を推進しているという解釈もできますよね?
そういうマイナスの解釈ができるからといって表現を変更しようとするのがポリコレであり、芸術への冒涜でもあり、創作文化の破壊活動でもあるわけです。
極論を言いますが、ポリコレ的な配慮に欠けた作品だらけの世の中なのですから、今から世界中のすべての作品をポリコレ対応版にリメイクしますか?
はい、そんなバカな話はありませんよね(笑)。
『コロンブス』のMVについても同様のロジックで、ポリコレに屈して謝罪する必要はなかったのです。
次に、MVを公開停止にしたのもよろしくないと思いました。
その理由はファンを悲しませるだけでなく、創作文化の衰退(自主検閲による作品の表現力の低下など)に協力することになるからです。
炎上した作品を公開停止することで、ポリコレ派のクレーマーたちに成功体験を与えてしまいます。
つまり「配慮に欠けた作品は世の中から消すことができる」というお墨付きを与えることになってしまいます。
さらに、世間の社会的許容範囲が狭まり(オヴァートンの窓が動き)、より不寛容で息苦しい社会になっていきます。
これがいかにヤバいことか、想像できますよね?
※ミセスがMVの公開停止と謝罪を選択したのは、今後のバンド活動やスポンサーへの影響を考慮した結果なのはわかります。しかしここで重要なのは、その選択をしなければ生き残れないほど社会がポリコレに支配されているということなんです。「公開停止も謝罪もミセス側の判断だから問題はない」という話ではなく、社会的圧力によって自由が実質的に制限されている現状が問題だということです。
……以上の理由により、私はミセスの対応(謝罪と公開停止)にも非があると判断しました。
まとめ
最後に、この記事の要点をまとめます。
- 昨今、ポリコレは人権を守る防具から、人や芸術作品を叩く武器(ポリコレ棒)に変化しています。
- 「ポリコレには反対だけど、この表現はさすがにアウト」というのがまさにポリコレであることを理解すべきです。法治国家において、アウトかどうかは「法」が決めます(法の支配)。
- 芸術作品はさまざまな解釈が可能であり、正解の決めつけは芸術を軽んずることになります。
- すべての解釈を考慮すると「きり」がなく、何も表現できなくなってしまいます。
- 創作文化を守るためには、芸術作品に対するポリコレを受け入れない、クレーマーに屈しない姿勢が必要不可欠です。ポリコレに配慮することで、不寛容で息苦しい社会に変化していくからです。
これらの点を意識し、ミセスを含むすべてのアーティストやクリエイターとそのファンが、創作文化を楽しんでいける社会が実現されることを願っております。