はじめに
どうも! みなため(@MinatameT)です。
表現の自由とは、個人の思想や感情などを自由に表現できる権利であり、日本国憲法の第21条で保障されています。
この権利はかなり広い範囲に及んでおり、次のような権利も含まれています。
- 趣味や政治について意見する「言論の自由」
- 自分の考えたイラストや楽曲を制作、公開する「創作の自由」
- 自分の考えた単行本や雑誌を発行、頒布する「出版の自由」
他にもありますが、この記事では「創作の自由」に焦点を当てて、創作文化を守るような論調で語っていきます。
さて、私が問題視しているのは「今の時代だから」という言葉です。
この言葉は創作文化に対する圧力を正当化、常態化するものであり、創作の自由を守りたいクリエイターやオタクにとっては悪い影響しかありません。
自主規制とその広がり
「今の時代だから」という言葉の問題点について語る前に、少し説明しておきたいことがあります。
近年、ポリコレやコンプラの名の下で自己検閲(自主規制)が進んでいます。
自己検閲とは、描写規制や言葉狩りを自分の意思でおこなうことを指します。
例えば、次のようなものが挙げられます。
- 描写規制:アニメや漫画の女性キャラの下着を描写しない(反重力スカートなど)。
- 描写規制:ゲームや映画のグロいシーンで暗転する(暗転ドーンなど)。
- 言葉狩り:「殺人」を「○人」と伏せ字する。
違法な内容であれば修正するしかないですが、合法な内容に対して自己検閲をするのはよろしくありません。
こうした自己検閲が広がると人々はその基準を最低限守るべきラインだと思い込み、「これは規制されても仕方がない」、「こういう表現もアウトでは?」と規制を強化する方向へと世論が変わっていくからです。
実際に昭和のテレビ番組と令和のテレビ番組を比較するとわかりますが、近年は表現できることが明らかに減っています。
テレビ番組だけでなく、漫画もアニメもゲームもそうです。
そうした自己検閲の風潮に対して、私のように「おかしいでしょ」とちゃんと声を上げる人もいます。
しかし残念ながら、言い方は悪いですが温室育ちの結果といいますか、表現に対して「繊細で潔癖な人」が増えた印象です。
ゲームで女性キャラの胸の谷間が描写されていたら「今の時代でいけるのか?」、「隠さないとヤバい」という意見も出てきますし、自殺に関する表現については極力遠回しに表現するなど、過剰な配慮で表現に不寛容すぎる世の中になっていると感じます。
国民性と圧力
日本は法治国家ですから、合法の範囲内であればあらゆる表現が許容されるべきです。
冒頭で説明したとおり、これは憲法第21条で認められています。
しかし、今の時代は自主規制(描写規制や言葉狩り)が当たり前のようにおこなわれています。
ここで注意していただきたいのは、外部から強制されているわけではなく自主的に規制しているから大丈夫……という話ではないということです。
日本人は周囲に合わせることや常識を重視する国民性です。
みんながやっていれば「正しい」ですし、みんながやっていなければ「正しくない」なんです。
そのため、自主規制があたかも義務であるかのような風潮が広がってしまっています。
その風潮が創作物に対する実質的な社会的圧力になっており、不本意ながら自主規制してしまう人もいます。
なぜなら、配慮の欠けた表現があると、正義の味方気取りのマナー厨や常識人から叩かれるかもしれないからです。
実際に、クリエイターに対して自主規制を強要する人や創作物を炎上させようと騒ぐ人もいます。
こんな圧力まみれの状況を「今の時代だから仕方がない」と容認して良いのでしょうか?
自由な表現を守るために:配慮は悪である
自主規制の風潮の弊害は主に次のとおりです。
- SNSなどで個人が過剰に配慮することで、意見を自由に発信できない空気が醸成される(同調圧力)。
- クリエイターが萎縮して作品の表現の幅が狭くなる。
- 多様な作品を楽しみたい消費者(ユーザー、ファン、オタク)がガッカリする。
これ全部、今の日本の現状です。
SNSで「殺」や「死」を伏せ字にする人が少なくないですし、ある昔のアニメが令和のリメイクバージョンで進化して帰ってきたと思ったら描写規制されていたり、それに対して「こうして規制するのであれば昔のバージョンを再放送したほうが良かった」とオタクが落胆したりしていました。
※このオタクの意見には私も同意です。規制された劣化リメイク版ではなく、昔のオリジナル版を再放送しましょうよ。
ですから「今の時代だから〜」と規制を容認するのではなく、「今の時代とか関係ねえ! ありのままの作品を見せよう!」と多様な作品を認めてあげる必要があるのです。
この毅然とした姿勢が創作の自由を守ることにつながります。
三月さんのように「合法の範囲内で無敵の人になれ」ということです。
もちろん、多様な作品が存在すると、一部の人は過激な内容(特にエロ系、グロ系)に不快感を覚えます。
しかし、個人の「不快」といった感情に配慮して作品を自主規制していくと本当にきりがなく、何も表現できなくなってしまいます。
例えば、二次元の女性キャラの乳首はダメです → 胸の谷間もダメです → 脇もダメです → お腹もダメです → 絶対領域もダメです……というノリで際限なく規制できますよね?
他にも「子供がマネをしたらどうする?」とか「子供の教育に悪い」とか「不謹慎だろ」とか、そういう理由も自主規制の材料にできるわけです。
だからクリエイターさんは感情という曖昧な基準で自主規制するのではなく、違法な内容があればそれを修正するだけで良いのです。
マナー厨や常識人からの批判を恐れずに、合法の範囲内で自分のありのままの表現を貫くべきです。
日本で美徳とされる忖度は芸術へのノイズです。
事なかれ主義らしい保身をするのではなく、できるだけ挑戦してください!
その一方で消費者としては、自分の不快な作品があれば「見なければいいだけ」という意識を徹底しましょう。
特定の内容が不快だと批判する自由はありますが、それを作品の規制に結びつけようとしないでください。
また、自主規制の風潮に惑わされないようにしましょう。
おわりに
「今の時代だから」と創作物への表現規制を容認すると、表現に対する世間の「許容ライン」が厳しい方向へとズレていきます。
そうなることでクリエイターの創作の自由度が減り、消費者が享受できる楽しみも減っていきます。
そんな窮屈な未来を回避するためにも、私は普段から表現規制に加担しないようにできるだけ意識しています。
例えば、このブログやSNSでは一般的に不適切とされる言葉遣いを控えることはありませんし、プレイしているゲームのアンケートには自主規制に反対する意見を述べるようにしています。
表現の自由は形式上存在するだけでは意味がなく「行使してこそ」のものです。
クリエイターであれば、今の時代に流されて自己検閲するのではなく、むしろ時代を変えるつもりで創作活動を続けていってほしいと思います。
私も負けませんよ(笑)!
以下は関連記事でして、CEROレーティングと有害図書の制度を批判しています。