もくじ
はじめに
どうも! みなため(@MinatameT)です。
あるアーティストやクリエイターが不祥事を起こしたことが原因で、その人の作品が公開停止される事例があります。
例えば、電気グルーヴというバンドのピエール瀧さんが2019年に麻薬取締法違反で逮捕されたとき、電気グルーヴとピエール瀧さんに関するCDや映像商品が出荷停止、回収の対応となりました。
また、ツユという音楽ユニットのぷすさんが2024年に殺人未遂で逮捕されたときは、プロセカやチュウニズムなどのリズムゲームに実装されているツユの楽曲が削除される対応となりました。
これらのケースのような作品の削除対応については「社会正義として当然のこと」というのが世論(常識)です。
しかし、これは本当に良い対応なのでしょうか?
創作文化には、表現の自由(アーティストやクリエイターが自由に表現する権利、その作品を公開する権利)だけでなく、ファンがその作品を自由に楽しむ権利も含まれています。
この記事では、不祥事を起こしたアーティストやクリエイターの作品の公開停止が、創作文化にどのような影響を与えるのかについて考えてみたいと思います。
アーティストやクリエイターと作品の切り離し
小説、映画、楽曲などの創作物には、アーティストやクリエイターの価値観や気持ちが込められています。
それは間違いありませんが、作品自体には罪がありませんよね。
例えば、槇原 敬之さんは1999年に覚醒剤取締法違反で逮捕されましたが、彼の作品は日本中で親しまれ続けています。
『世界に一つだけの花』や『どんなときも。』は日本国内で超有名な楽曲ですよね。
ではここで1つだけ質問しますが、彼のファンは覚醒剤所持を肯定しているといえますか?
そんなわけないですよね(笑)。
例えば、友達とのカラオケで『どんなときも。』を歌ったときに「お前は覚醒剤所持を肯定しているのか?!」とキレられたら、理不尽すぎて気分が悪いですよね?
そうです、ファンは彼の犯罪行為を肯定しているのではなく、彼の作る音楽が大好きなんです。
犯罪行為(犯罪者の面)と作品をリンクさせていません。
これが「作品に罪はない(アーティストやクリエイターと作品を切り離して考える)」ということです。
さらに、犯罪者の作品を扱うことは法的に問題がありません。
それにもかかわらず、前述の作品の公開停止のような表現規制やキャンセルカルチャーが蔓延しています。
これは創作文化(表現の自由、作品を楽しむ自由)に悪影響を与えていると考えられませんか?
補足:キャンセルカルチャーの意味
キャンセルカルチャーの意味がわかっている方は、この項目を読み飛ばしていただいて構いません。
キャンセルカルチャーとは、社会的や道徳的に不適切とされる表現や行動を含む作品や人物に対し、その公開停止を求めたり、社会的に排除しようとする活動とその文化を指します。
法的に問題がないにもかかわらず、特定の表現や行動がアウトだと判断された場合におこなわれる私刑(社会的制裁)の一種ですね。
私はこのキャンセルカルチャーに断固反対しています。
倫理観には個人差があるものの、表現や行動に本当に問題があるのなら法によって裁かれます(法が完璧だと言いたいわけではありません。改正すべき法律もあります。)。
それが法治国家における「法の支配」です。
法的にクリーンであるにもかかわらず、感情的になって独自の基準の正義を振りかざして暴走するのは、法治国家において野蛮な行為だといえるでしょう。
そして、キャンセルカルチャーが創作文化の衰退につながるおそれもあります。
法の支配と創作文化を守るため、私はキャンセルカルチャーという集団的私刑に強く反対しているのです。
※日本が実は法治国家ではないとか、そういう高度なツッコミはここではご遠慮願います(笑)。
犯人の収益の重要性
犯人が逃亡中であれば話は別ですが、すでに逮捕されている場合、犯人の更生と社会復帰を促進するためには収益が必要です。
「いやいや、犯罪者にお金を与え続けるとか、道徳的におかしいでしょ!」と思った方もいらっしゃるでしょうが、そう感情的にならずにもうちょっと考えてみてください。
収益があれば経済的な基盤ができ、出所後に社会復帰しやすくなりますよね。
これは社会のためでもあります。
刑務所の囚人を養うお金も、生活保護費も私たちの税金です。
つまり再犯せずにちゃんと社会復帰をして税金を納めてもらうことが、この社会の損失を減らすために大切なんです。
それと先程述べたばかりですが、そもそも法治国家において私刑で制裁することは野蛮な行為です。
犯人がすでに逮捕されている場合、あとは法的にちゃんと裁かれますから(刑事罰があるので)、感情的に暴走せず落ち着くべきです。
被害者への配慮とファンへの配慮の両立
もちろん、殺人未遂事件のように明確な被害者がいる場合、被害者側への最低限の配慮も重要です。
しかし、作品を販売停止、公開停止することで数多くのファンが悲しむだけでなく、今後のあらゆる創作文化に悪影響を与えかねません。
そこで、犯人の収益の一部を被害者支援に回すことを条件に、作品を引き続き公開しておくことで、被害者とファンの双方に配慮することができますよね。
ここで被害者側の「支援金をもらっても心の傷(トラウマ)はなくならない」といった気持ちもよくわかります。
しかし、この理屈で過剰に配慮していくと(基準が厳しくなることで)販売停止、公開停止すべき作品が急増してしまい、創作文化の衰退につながります。
例えば「私は小学生の頃にクラスメイトだったこのアーティストにセクハラされたので、彼のすべての作品を公開停止してください。」とか「私は不倫の被害者なので、彼をテレビ番組に一切出さないでください。」とか、そういう意見に配慮しすぎるとどうなるでしょうか?
被害者側に我慢してほしいとは言いたくありませんが、過剰な配慮は不寛容で息苦しい社会を形成し、結果的に自分らの首を絞めることになる可能性もあります。
そのため、法の支配をメインとして、被害者側への過剰な配慮はやめておくべき……というのが私の考えです。
自分や家族が被害者になったとしても、この意見は変わりません。
創作文化は人を救いますから、絶対に守っていきたいです。
企業のブランドイメージと創作文化
芸能事務所やゲーム運営会社などの企業のブランドイメージや株価を守るために、犯罪者を契約解除したり犯罪者の作品を公開停止するのは妥当かつ常識的な対応といえます。
「犯罪者の作品をまだ取り扱っているのか? 反社会的勢力の味方をするのか?」という世間体の悪い評判が広がることで、企業のイメージダウンにつながるリスクがあるからですね。
しかし、犯罪者の作品を引き続き取り扱うことは法的に問題がありません。
とはいえ、企業を守るという観点であれば、公開停止という常識的なつまんねー対応が無難なのはよくわかると思います。
ですが、創作文化を守るという観点なら、公開停止は悪手といえます。
前述のとおり、不寛容で息苦しい社会になり、創作文化が衰退していくからです。
「法的に問題はないけど、あの表現は問題がありそうだから修正して、こっちの表現も修正して……」と、そんな自主規制(検閲)だらけの創作文化になるのは嫌ですよね?
小説も映画も音楽もすべて、創作物はアーティストやクリエイターのありのままの表現が命なんですから、検閲で作品のクオリティーを落とすのは絶対に避けるべきです。
ここで考えてほしいのが「ブランドイメージを守りつつ、作品の公開を続ける選択肢もあったのでは?」という点です。
前述のような被害者支援に協力したり啓蒙活動をおこなうことで、ブランドイメージを損なうことなく対応できるはずです。
もちろん、企業側もヒマではありませんから、被害者支援や啓蒙活動の十分な時間を確保するのは難しいでしょう。
しかし、それでも「被害者に配慮するため、犯人の収益の一部を被害者支援に回します。」や「社会のため、そして創作文化を守るために作品の公開は継続しますが、当社は犯罪行為に強く反対しています。」などと示すことで、企業、被害者、創作文化のすべてを守ることができるかもしれません。
まとめ
最後に要点をまとめます。
- 作品に罪はありません。「罪を憎んで作品を憎まず」です。
- 犯罪者の作品を扱い続けることは法的に問題がありません。
- 創作文化(表現の自由、ファンが作品を楽しむ自由)を守るためには、犯罪者への罰は法に委ねて、私刑や過剰な配慮(自主規制)は控えるべきです。
- 「企業のブランドイメージを守るためだから……」と自主規制を受け入れるのではなく、企業、被害者、創作文化のすべてを守る方法を模索していくべきです。
これらの点を意識し、自由な創作文化を守っていきたいと思っています。
おまけ:ぷすさんの件について思うこと
ぷすさんが殺人未遂事件を起こしたとき、私は「SEGAのゲームからツユ楽曲が消えるだろうな」と思いました。
SEGAがポリコレなどの圧力に弱いのは『ぷちセカ』のレオニードスタイルの件で確認済みだったからです。
そして案の定、多くのユーザーから親しまれていたツユ楽曲は後日削除されてしまいました。
私はこの削除対応について「企業としては常識的で妥当である」と思うのと同時に「いい子ぶって保身に走って、創作文化の衰退に加担しちゃったか……」という感情も正直ありました。
このケースのように、法的に問題がないのに「事なかれ自主規制(保身)」をしてしまうと、社会的な許容範囲がどんどん狭まり(オヴァートンの窓が動き)、創作文化が少しずつ衰退していってしまいます。
「昔はこのゲームもこの音楽も合法だったんだけどね……。」といった会話は未来でしたくありませんよね?
私はこういう懸念を抱いているのですが、多くの方はそうではなかったようです。
「企業の信頼のためには楽曲を削除するしかなかった」、「犯罪者に楽曲の使用料を与え続けるのは大問題」といった普通の意見が多かった印象です。
また「楽曲のファンたちは、楽曲削除による新しい被害者である」という意見は、SNS上で1つも見つけられませんでした。
とても残念です。